昭和44年02月03日 夜の御理解
信心を頂いて皆んなが実感する事でしょうけれども、神様のお働きの素晴らしさ、神様のおかげの働きの素晴らしいという事、いわゆる自然の働きの素晴らしさというなものを、体験してよう分っているだろうけれども、その神様の働きのもっともっと偉大なものにもっともっと豊かな働きを、その働きを豊かなおかげの為に頂きとめて行かなければなりません。そのおかげ頂けるためにいよいよ豊かなおかげに育てて行くのが、氏子の精進であり努力なのですね。
しかし只々自然の働きが素晴らしいという事だけではなくて、それをいわゆるもっともっとより素晴らしいものに育てて行くというか、生かして行くよね豊かにして行くという働き。今国雄さんのお届けされるのに、昨日あちら親子三人連れで、家内が里の方へ用事があるからと言うんで向こうに今日行っとります。それで妙だなことだなと感じん事はなかってんですけども、向こうへ送って行ったらまぁ桂子さんといいますが、桂子さんが「私はもう帰ってこんかも知れんばの」ちいうた。
そりゃまぁお互い若い時夫婦間の中に様々な問題があった。お互いのそれは体験のこもった事でございましょう、そりゃ若い時だけじゃない年を取ってからでもですけれども、まぁまたなんごつ言うじゃろかと、まぁいう様な気持ちで帰って来ましたけれど、やっぱりその一言が気になってこわくなってね、それだやっぱりあのう神様にお縋りさして頂いた、したところがまぁあのう神様からあのう、ストーブのね燃え上がっているところ頂いた。特に女はひとつかっとする性根を持っておりますよね。男よりも。
いわゆるそれをヒステリーという訳ですね、ヒステリーの初期ですいわばこんどのことはですね。そういう様に何んかちょっとした事で、かぁっとするその後には見境も付かん様になる。特に体の上に異常のある時なんかは女はそれはとても強い。これはもう私が良い体験者ですからね。本当に私国雄さんに言うんです。本当に家内をね、あのう例えば久富の家の者にしてしまうとのには十年かかるよ。しかもただ十年待ってただけじゃない。もうそりゃ男の方が大変な精進をしなければいけない。
私がもうこの家内とと本当にあのうおかげ頂いていくために、決して家内に手を当てるような事はしないと言う信心が5年続いたんですよね。当時。ところがとてもとても5年位の事じゃ出来なかった。5年計画でしたけれども、とてもこれじゃ椛目に帰ったならどげなふうになるじゃろという様な感じでした。それでまぁ五年お願いしたんです私は。ほしてところが十年目にようやくこれならというような感じ、今も自分のいをとす気はないですけれどもですね。これは男が良いに決まっとる事じゃないですけども。
こりゃ夫婦共がそういう精進をし合うたらどんなに素晴らしい事になるだろうかと思うてですね。だから信心が無いなら、家内の場合そんな風に行かんから、本当に久富の家の場合は、国雄さんが話を頂く以外にない、けれども国雄さん有り難いじゃないの、あんたあんた位の信心で、神様がそげん適切にお知らせ下さるちゅ事は有り難い事だ。だから反対の方にこうひねりさえすりゃ冷えるとじゃから、これは言っちゃならんとならんとこう思うて心を治めさせ頂いとった。
けれどもやはりここは電話をかけさせて頂こうと思うて、電話二遍もかけたけれども二遍とも話し中であったとこういう。そこの時はっと気付いた事は、はぁこりゃ神様が「まぁだまだ呼びん行っちゃいかん。電話かけちゃいかん」と、自然の働きと受け止めた訳ですね。私は金光様の御信心合楽にご縁を頂くなら、この辺のこつ合いを良ぉく体得せにゃいかんとね。そしたら一時間ばかりしたら帰って来とった。それこそ燃え上がったっちゃけん、けろっととして帰って来た訳です。
勿論まぁ一昨日言うとる手前もあるけん呼びに来てくださいも言えなかったのでしょう「善道寺から歩いて帰った」と、こう言うのです。だから国雄さんとてもとてもこげな事は一回や二回じゃない、繰り返し繰り返しある事であろうけれどもね、そういう中に非常にです神様の「国雄さん分ってくれよ」の「国雄さんここをまいっちょ進めてくれよ」という神様の働きを分からせて頂いて、こっちが信心を高めて行く以外にゃない。もう必ずそのところへですね。
おかげ受けていけれる道が開けて来るからと、いうな事をまぁ申したのてすけれども、そういうねそのうおかげを頂かせて頂く度んびんに、まぁそれからも日々本当に神様の働きちゃ自然の働きとはというのは、ただ嫁御なら嫁御、家内なら家内が、おかげ頂くだけじゃなくてそのそういう自然の働きの中に、国雄さん自身もおかげ頂いとらなければ、自然の働きとは言えないです。
私は今は朝の今日寒修行の最後の日でございましたが、ここに高橋さんがご承知の様に毎朝参って来る、ところが今度は本当に御祈念に間に合うちゅう事が、何回しかなかった位。今日はお届けされるのに、確か晩休ませてもらう時に、一遍親先生のお出ましになるのに間に合うというようにと言う気持ちでお願いするんですけども、もう目が覚めると五時だとこういうね。それからやって来るともう御理解も済んどりゃ、もうみんな帰られた後位にしかお参りが出来んとこういう。
神様にお願いをしてあのうそうなるのですから、こりゃしかし今度の寒修行の中に感じたことは確かにそういう様な雰囲気だつた。ほれで高橋さんはあのう「私は又明日から寒修行をやり直そう思ょるけん、あんたもどうでんこうでんやり直しなさい」と、こういう風に申しましたら、いう事がこういうんです。「先生、私は自分の体の限界というものを知った思いがします」と、今度。だがこれが私が精一杯でございましょうという意味のことを言うから、もう私は二の口が出ませんでした。
もう今度はねこう言う椛目で中堅と言われるような人達が、朝参りして来てないのですよ。今度の寒修行には。もう当然出て来なければ本当いうたら、私に対して済まぬという人達が出て来ておらんです。ですからなら私もそれを願ってない訳はないでしょう。それが出来てないんですからね。高橋さんの場合でもそうです。毎晩お願いしょるけん休む時、そりゃ目が覚めんのはこりゃ私の体の限界で、もうこりゃあんまり早う起きてする事ぁいらん。というふうに言うから、もう私としても二の口が告げなかった。
けれどもですそういうひとつの自然の働きの中にです、ほんに私は今日分からせて頂いた事はです、祈りてみかげの無い時は、これぞ不思議なる事ぞと仰るでしょうが。自分がお願いをしてです、息子の事願うた嫁御の事を願うた、子の事を願うて一生懸命願いよるにも係わらず、それが霊験、おかげになって来ないとするならそれにこそ不思議なる事ですからね。これはその不思議なる事を、どうしてじゃろうかと思わずに、その不思議な事をです、自分の心に持って来にゃ駄目ですね。
はぁおかげ受けられん筈だという、その不思議さを本当に実感して自分の方へ持って来にゃいけません。自分の祈りが成就しないというて、神様を恨む事があっちゃならん。又自分の祈りが成就せんからと言うて、これがその対人間の場合なんかはです、自分の子供がいうことを聞かんなんて言うて、どうしてじゃなくてそこにこりゃ不思議な事じゃと思うてです。任せるという事だけではなくてね、やはり国雄さん自身がもっと改まり、もっと精進させて貰うて、いわゆる自然の働きをそこに頂いたので。
これをもっと豊かにするために、おかげ頂いて行かなくなくてはならない。今日伊万里からちょうど一年目に、お参りして来た親子四人、若かい夫婦なんですもう二人の子供さんがおる。竹内先生のところにいつもお話頂きにいきょる。ここにお参りするのはまぁ年一遍。今日お参りにまいりました。ですからそのう去年こういう様な御教え頂いて、それをこう出されてから、でこれでもう年頭のそれを御神米に書かして頂き、「より明るくよりにこやかに」という、今年もかわされたということを。
いうて上げるのと同時に私があのう申しました。「御取次させてもらいよったらね、額口にここに大きなこぶを作っている所を頂きました。」もうこれ以外にゃないのだね。叩かれて瘤が出る程にあっても、それを喜ぶで受ける以外にないと、金光様が教えて下さった。もうあいてにこん畜生と言よったらもうおしまい。どうして叩くかと言ったらもうそれで信心は駄目、自然の働きをもうそこに向うへ押し返し押し返した事になります。叩かれてそれこそ眼から火が出るごたる思いをする時ならする時程です。
やはり自分というものを練らにゃいか。すみませんという時はね、だがらそれがだんだん分かって来るとこのうすみませんじゃなくて、有り難うございますと叩かれた事の上にも喜びがあり、叩かれてもやはり喜びで、瘤で受けて行かなきゃいけんということなんです。こう私が伝えたら夫婦が、顔を見合わせてから笑いよるですもん。はぁりゃもう貴方も今からその通りで行きなさい、お前もその通りで行きなさいと、心の中で話し合っている様な感じでしたね。
ですから金光様の御信心といや、合楽の御神縁を頂く人は、その生き方以外にゃないです。ねそういう生き方こそが、いよいよ自然の働きの素晴らしさが分るだけじゃなくその素晴らしさを、いよいよ偉大なものにして行く事が出来るのです。問題以外のものに大きな豊かなものにして行かにゃいかんでしょうが、国雄さんなんかは国雄さん一人にゃ苦労はさせん。お父さんもおりゃお母さんもおられるんですからね。ほんな親子三人のものが家内の事を祈り、嫁の事を祈り抜かして頂いて。
おかげ頂き頂きながら、またそれもいうなら例えば、いうこと聞かんということも、神様のご都合、自然の微妙な働きの中にある事だから、だからそれをいよいよ有り難くに受けていく。行こうかというてですね、なら叩かれとか嫁御から叩かれちゃ、例えばたい嫁御からが、そのういい渡されてからです、このうにこやかに出来んでにこやかに、にこにこしとけという事じゃ決してないのですよ。そりゃ例えば仁王さんのごたる顔したってかまわんとです。
あぁた今日それをお知らせ頂いてですね、はぁそうばいなぁと思うたんです。夕方で御祈念の時にある事お願いさして貰いよったら「佐保天」(さぼてん)と頂いた字で。佐は人編に左、保はたもつという字、天は天地の天です。どういう事じゃろかと思うて頂いたら、あのう御理解にねあのう「にこやかにとかね明るくとか言うのはね、あのうぶうっとした顔しちゃいけんという事じゃないって。ぶうっとした顔せにゃん時にゃぶうっとしてよかっちこういう。けど問題は腹からぶうっとしちゃならんという事なんです。
こりゃ特に私は私に下さったんだと思ったですれけども、例えば信者さんがどういう様な場合であつても、そん時私がにこやかにこにこしとったらですね、おかげ頂切らんという事なんです。そしてなら三代金光様の事思うたね。それこそこの人の場合はにこやかに、御取次ぎなさっておられたかと思うと、次の人にはもうそれこそもう本当に、叩き掛りたいごたる形相でですね、御取次をなさる事があったでしょうが。まるきりお叱りを受けとる様な「はいはい」の時があつたでしょうがね。
はぁ特に取次者はここが大事だなぁと私は思うた。なんで金光様は端から腹かいておられる事じゃないのですけれども、こりゃ教導のためにねなら私の子供なら子供にでも、私が余りにこやかな顔ばぁっかりいかん。あらお父さん顔色が悪いがと、子供達がですねはっとそれに気付く位なおかげ頂く為にはですね、私の場合にゃサボテンじゃないけども、ぢかぢかする様な風としとってもいいということね。だから私はあのうにこやかにということ、分るということ明るくということの。
もう一度深く深めた内容ということの中には、そういう事もあること知らなければいかんですね。無理にもやもやしよるばって、顔だけがにこにこしとるいうしゃならね、けれども腹の中も顔も一緒にもやもやしとるというのは、これはここの所ね一生懸命取り組にゃいけませんね。だからゆとりがあるということなんです。言うならばね心はどうでもよいと言う気か、又は平気な心であってもですね。顔にはぢかぢかふう又はにこやかでない風をしておっても、いやむしろそれの方が本当は。
おかげだということをですね頂いたんですけれども、そういう例えばおかげを頂かせて頂きながらですね。自然の働きを大事にしていかなければいけないね。その自然の働きの微妙さ、そのもう不可思議極まるまでのまぁそのう働き、その働きを受け止めるだけでなく、その働きをいよいよ偉大な豊かなものに、大きなものにしいく為にですね、私共がそういうような、今日私が申しました様な様々な工夫がいるのではないでしょうか。特に人間関係の意味に於いてしかりです。
どうぞ。